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メッセージ from ひとみみのる


最近のメールから、徒然に(テレサ・テン⦅鄧麗君⦆没後20年に因んで)

平野さん:
ご無沙汰しております。もう新緑もたけなわですね。その後お変わりございませんか。
さて先日(2015年5月13日夕)BSTBSのテレサ・テンの特番を見て、下記のような文をごく親しい友人Kさんに送りました。
番組を見ながら、平野さんとこの2月にお話したことなどを思い、更にまたお話したことが明確になったように感じました。                                                                                      


Kさんから同意を得て、そのメールを転送します。
(文は以下)
5月12日(2015年)
お蔭様で今は前夜(5月11日)の二日酔いも治まって、ごく普通の日常に戻りました。二日酔い防止のウコンもサコンもどうやら気休めのようです。やはり、飲み過ぎはどちらにしてもよくないようです。
ただ、酒を飲むことによる効用は精神的には大いにあるわけですが、その後の落ち込みは同様に精神衛生面によくないようです。

5月13日
一昨日の不眠が原因で、昨晩は早く眠れ比較的快眠でしたが、その快眠の影響は今晩の不快眠につながるようで少々恐怖しています。
(ついでながら、果たして昨晩5月13日の睡眠は最悪でした。5月14日付記)。
今夕6時から8時までBSTBSでテレサ・テン没後20年の記念番組を見ました。
20年前、『テレサ・テンが見た夢』(1996年5月、晶文社刊)と題して平野久美子さんが著した作品が脳裏にこびりついていました。おまけに僕は、今年4月に作品を増補改訂(加筆、改稿)して、筑摩書店からテレサ・テンが見た夢(ちくま文庫)」として出版する際に平野さんと対談するチャンスも得ていたのです。
2014年6月から僕が「瞳みのるライブツアー」として全国20か所でテレサ・テンの中国語の曲を日本語に訳して歌ってきたのは、言うまでもありません。チャイニーズポップス(Cポップス)を歌い、中国語文化圏で、いまだに誰もがたどり着けない、国境を超越した絶大にして圧倒的な人気を誇ったテレサに特別な関心を持ち続けてきたのは、僕にはとても自然なことだったのです。
テレサの日本で歌った曲の大半は、男社会の勝手な論理・都合による意に染まない曲を日本の芸能界で日本の歌謡曲として歌わされてきたと僕は思っていました。それはその通りですが、また別の意味で、悪い意味ではなく、中国人的な計算があったのでしょう。その後1984年復活するときにも同じような詞調の曲をまた歌っていることからしても。それでも、全て素晴らしい名曲揃いです。
ただ、テレサ・テンは1979年偽パスポート事件後、台湾・日本を追われ、その後復帰に際して台湾国民党の広告塔として、多少、当局と関わらざるを得なくなったようです。
不運ではありますが、1989年天安門事件以後、政治と音楽の狭間に喘ぎ、中国当局のやり方に対して抵抗があった結果、家族の祖国(大陸)で歌いたいという希望も絶たれることになるのでしょう。それ以後、私生活では婚約の解消という痛手もあったのでしょうが、パリに移り住み、深く挫折したように思われます。
そもそも政治は、人の社会生活にとっての効用面は否定できませんが、それに弄ばれたテレサはその犠牲者になるのでしょう。政治は宗教と並び本当に難しいものです。
テレサの心はそのように同じ中国圏で揺れ動きました。
ただ、僕個人としては政治には、文字通り「不偏不党」で、常に距離を置いてきました。テレサがおかれた環境や条件を省みると、僕はそれが可能であったことをつくづく幸せに感じています。

再信:
用語の誤用に御用で、更に書き足し、再新最新最深細心砕身再伸!

 2015年5月16日 ひとみみのる 記
<参考 >
2013.3.14 メッセージ より  北京春天  >>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・散歩の終わりに、盲目の大道芸人が同じく盲目の奥さんと思しき女性と幼子を傍らに座らせて二胡を演奏していました。曲は「月亮代表我的心」(Yuèliang dàibiǎo wǒ de xīn「月の光は私の心」)でテレサ・テン(邓丽君Dèng lìjūn)の大ヒット曲でした。はじめ通り過ぎたのですが、何故か気になってもう一度戻って彼にリクエストしました。 勿論少しですがお金を払うと言ったので、彼は喜んで弾いてくれました。 ちなみに、払った金額は5元(一元は現在15円50銭前後)です。 皆さんどうぞお聞きください。

テレサ
2012.2.6台湾、
台北101タワーにて 
「テレサ」と



マルベル堂プロマイド撮影

ホオジロは「一筆啓上仕り候」と鳴き、

徳川家康の臣下、作左衛門(本多重次)も妻への手紙:
「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」と認め、

プロマイド撮影 老虎隊の鼓手、瞳みのるも電子メールで皆様に:
「愚人敬白、気の用心、汚染で泣かすな、除染増せ」と。

いやはや、「歳も取りましたが写真も撮りました
2015.5.8(金)東京浅草「マルベル堂」にて
殆ど半世紀ぶり(?) プロマイド用の撮影を致しました。

 2015年5月9日 軽薄主人独白・自白、自宅は目白(・目黒?)

付記:             
呼び方は、ブロマイド?プロマイド?
マルベル堂では原紙を「ブロマイド (Buromaido)」、写真にした 製品を「プロマイド (Puromaido)」と呼称しています。
ザ・タイガースは1968年(昭和43年)・1969年(昭和44年) 年代別プロマイド(ブロマイド)売上ベスト10に入っていた そうです。



「たまたまテレビを見ていて」

2015年4月29日(水)午後10時15分前後。
テレビ朝日「報道ステーション」古館伊知郎キャスター
ゲスト:北海道大学大学院准教授
ホワイトハウスでのオバマ・安倍日米首脳会談の話から。
北海道大学大学院准教授は自衛隊の海外派兵について、ホルムズ海峡が封鎖されればイランペルシャ湾側での機雷の掃海活動が集団的自衛権の対象となる場合があるだろうということに触れ、
「機雷の敷設(
シキセツ)は・・・・と言った」
僕は一瞬聞き慣れない言葉を聞いて、意味が解らなかった。暫くして、それが「機雷の敷設(
フセツ)の意味で使われたのであろうということが察せられた。
国語の乱れが常に問題にされている昨今ではあるが、公共放送の番組で夜のニュース番組のゴールデンタイムの報道番組でこのような誤読を聞くとは思わなかった。
その後同番組10時30分近くの天気予報まで視聴したが訂正は入らなかった。
発言者は不勉強で知らなくても周りのスタッフが、リハーサルの段階でチェックしてやれなかったのかと残念に思った。しかし、これは准教授単独のコメントの部分になるから、その細かな内容まで局は放送直前まで聞いていなかったのかもしれないし、また、放送中の訂正もキャスターや周りのスタッフとしてもできなかったのかもしれない。
常時テレビを見ているわけではなく、うるさいご意見番爺さんにはなりたくないが、たまたま見かけただけでこれである。それにしてもお粗末なかぎり。
一朝有事の際、確かにホルムズ海峡の機雷掃海は、起きれば未曾有(?)の出来事になり麻生元首相がそうかいと言っても済まされず、好きと嫌いに関わらず日本にとってはライフライン、死活問題だろう。
国語力の低下は国語を教える教師の質の定価でなくて、もともと原価などあってなきが如しだが、原価の減価(?)だと言下に答えられる。元国語科教師としては。
33年間高校で国語・中国語の教員を勤めてき、この国語力の圧倒的な低下によって、このような読み違いをする生徒を教えてきたかも知れなく、自分もその責任の一端を感じるべきなのであろう。
ただ、「敷」を「フ」と読む語としては、鉄道を「敷設」(フセツ)するという。また、「敷衍」(フエン)という語があるので、間違わないように思うのだが、恐らくこの学者はこの言葉「敷衍」も「フエン」して上げないとわからないのかも知れない。
この問題について、報道テレビ番組を編成する局はどのように処理するのであろうかと関心があった。僕自身特にザ・タイガース復活後の活動もマスコミに支えられて、これまで何とかやって来られたので決して悪く言いたくない。ただ、このレベルのテレビのチェックの甘さはマスコミ全体の今後にとっていいことではないだろう。危惧を抱かざるをえない。
そこで昨晩、早速電話を「テレビ朝日視聴者センター」窓口に掛けたが、自動音声で営業時間外対応できないと言う。今日は同センターへ午後遅く電話を掛けるも話し中、仕方なくこのサイトに掲載することにした。

2015年4月30日                     
追伸:
その後、漸く電話が繋がったものの、係りの局員は、僕の上記のような内容を話すと、そのようなことがあつたことを上に伝えると言ったきりであった。 

 2015年5月1日 ひとみみのる 記



加瀬邦彦氏追悼

ザ・ワイルドワンズのメンバーと会ったのは、1966年末、ザ・タイガースとして東京へ出て来て、同じ事務所に所属していた関係で会社より紹介されてのことであった。当時すでに「思い出の渚」はヒットしていて、僕たち新人バンドとしては彼らの存在は眩しく映り、羨ましく思えた。
加瀬さんはそのザ・ワイルドワンズのリーダーとして活躍されていたのであるが、他のメンバーもそうであったが、売れっ子にありがちな驕りも気取りもなく、まるで学生バンドのように僕たちに対して至って自然に接していただいた。

1967年夏ザ・タイガースの「シーサイド・バウンド」がヒットしてからは、ワイルドワンズとタイガースは共演することも多くなったが、付き合いとしては彼らとは兄弟バンドのようであった。
中でも、そのころ東北盛岡での「わんこそば」の数を競って食べたこと、当地の美女姉妹を巡って互いのメンバー同士がつばぜり合いをしたことなどが楽しく懐かしく思い出される。そんな時、加瀬さんは一応仲間に加わるが、何処か超然としたところがあった。

加瀬さん個人とタイガースは、1968年加瀬邦彦作曲・安井かずみ作詞、「シーシーシー」で、仕事を一緒にすることになった。
僕はその後、芸能界を離れて大学に入り、慶應高校で教職に就くことになったが、加瀬さんとのつながりは、慶応大学では先輩となり、慶応高校では同窓生と教員の関係になった。
その後33年の教員生活に終止符を打ち芸能界復帰直前、確か2011年1月渋谷公会堂で沢田研二恒例のライブ新春ツアーの初日、岸部一徳、森本太郎と僕の3人でコンサートを観に行き、その後楽屋へ沢田を訪ねたのであるが、たまたまザ・ワイルドワンズのメンバーも楽屋を訪れていた。
その時、加瀬さんとほぼ40年ぶりの邂逅となったのである。彼は僕を見るなり、「ピー」(僕の愛称)は「全く変わっていない、保存状態が極めていい」と、人を物品扱いするような、彼一流のウイットに富んだ表現をして、周りにいた両バンドのメンバー一同が大笑いしたものであった。

その年の2月、拙著『ロング・グッバイのあとで』という芸能界復帰に因んで出した本の出版記念会にも来ていただき、会場の舞台に上がって挨拶までしていただいた。
その後も2011年9月からの沢田研二ライブ(岸部一徳・森本太郎・瞳みのる)も観に来られた。
まだまだこれから、ポピュラー音楽の世界では若い方だから活躍されるだろうと思っていたのであるが、このようにして先立たれるのはとても残念でならない。






2011年2月25日「ロング・グッバイのあとで」出版記念会
 「祈故人冥福」  ひとみみのる  2015年4月22日



富山紀行

前回富山に行ったのは、2011年9月23日でした。その時のことを、『老虎再来』(祥伝社2012年刊)というツアーダイアリでは書いてはいませんでした。同年9月8日に東京の国際フォーラムで沢田研二と森本太郎・岸部一徳・僕などで(僕としては芸能界復帰直後のこと)38回の全国ツアーをやりましたが忘れもしません。僕たちはその前日に富山入りをしていて、沢田の「鉄人バンド」の仲間も含め全員が僕の誕生日祝いを富山のフレンチレストランで祝ってくれました。
その日の朝、市中心の松川辺りを朝散歩しました。この川の周辺は京都左京区法然院付近、沢田の家近くの「哲学の道」のように散策するには大変素晴らしいところでした。その川沿いの道には、間隔を置いてブロンズの像が配置され詩的な趣がいやが上にも感じられました。
かつて、初期(1970年代前後)のザ・タイガースの時代に来ているのですが、今回は、初めて富山を体験したような気持になりました。以前は訳も分からず疾風怒濤のごとく過ぎて行った日々の連続でしたから。
街は未だに昔の京都のように路面電車(ライトレール)が多く走っており、懐かしくもあり、実用としての移動手段はこれに乗るのが便利です。電車がある分、街はバスが少なく、排気ガスもその分少なく空気は綺麗で、その上街の騒音も少ないようです。
この3月開通した北陸新幹線に東京駅から乗ること約2時間、到着した日は早速市内各所を巡り、しっとりと落ち着いた街並みを見て回り、夜はホタルイカ・白エビを中心にした富山料理を堪能しました。
翌日午後は講演で、その夕方主催者による歓迎会に出席した後、深夜ホタルイカを捕りに出かけました。丁度、今夜は新月の夜、南風が吹いているのでホタルイカが恐らく捕れるだろうとのことです。
場所は神通川河口の富山湾、市内より車で15分内外とのことです。これまでテレビなどでその漁を見たことがありますが、実際に見られ体験できると聞いて千載一遇のチャンスとばかり勇んで出かけました。
午前一時に終了して、釣果は三人で行って39杯でした。
湾内の水面に浮かぶホタルイカを網ですくうのですが、すくって水に上げると人工的なブルーの光を脚から数個発して、その色は何とも美しく、まるで自然の発光ダイオードのようでした。そのまま、ネックレスにしてしまいたいほどうっとりと怪しく輝いていました。
翌日は、車で郊外八尾(やつお)に出かけました。この地は毎年9月1・2・3日に行われる越中おわらの「風の盆」が催され、人口数万の町が見物客で一挙に数十万に膨れ上がるそうです。岐阜の郡上八幡の「郡上おどり」は聞いていて、実際に郡上八幡へ行ったことがありますが、今回、僕が高校教員をしていた時代、国語科の教員の多くが常に「風の盆」のことを憧憬の念をもって語っていたことをよく覚えています。その地へ今日はいよいよ行くのです。
かつての話では大変辺鄙なところにあると聞いていたのですが、今度北陸新幹線が開通して、富山駅からこの地八尾へは車でわずか30分程度で来られるようになったのです。勿論、電車も富山から高山線に乗ればその程度で来られるのです。
町は富山市の南、山の麓(更に南は岐阜県飛騨)にあり、いかにもその民芸風な落ち着いた家並に町の伝統を感じさせてくれます。この越中八尾祭りの起こりからその地に住む人たち、民間の人が創って来たいわゆる町人文化の祭りであることが、なお一層素晴らしく素敵なことだと思われました。なんでも中国楽器の「二胡」の音色も明治期になって入り演奏されるようになったということです。その音色は憂愁を帯びています。
5月3日は、「曳山祭」で6基(3基は越中八尾観光会館内展示)の山鉾が町に牽かれ1740年代から300年の歴史を感じさせてくれるでしょう。
その後、山の手からほぼ30分位、一気に北上して岩瀬という神通川の河口(富山湾)にある北前船のかつての発着所に行きました。この場所も八尾と同様町のメインストリートは電線・電柱がなくすっきりとした素晴らしい街並みでした。
僕は個人的には山よりも海の方が好きですが、この古い廻船問屋街が一気に好きになりました。旧家として残っているその一軒(森家)を見学しましたが、北前船の停泊地の商人たちの商法や生活の知恵にいたく感心させられました。
機会があれば、「松川」、「越中八尾(風の盆)」、「岩瀬」へ是非再訪したいと強く思います。
僕は今回、縁あって富山に参りましたが、その富山の人と接して、その人柄の奥ゆかしさ、質実さ、おおらかさを、素朴さを感じてすっかり当地のファンになりました。
本郷東大キャンパスの安田講堂を匿名で寄贈した安田財閥の創始者、安田善次郎に似た奥ゆかしさを強く感じた「山と川と海」の国富山への、このたびの旅行でした。


[photo]  富山  >>

[富山講演]「二十二世紀への軌跡」チラシ>>  チラシ裏面>>
 2015年4月21日 ひとみみのる 記



「北京転居のお知らせ」

2015年4月4日(土)またまた、引越ししました。
これまで北京では7度目になります。ついでながらお付き合いくだされば、その内訳は以下の通りです。

①1981年8月(日本→①北京語言学院)、
② 1983年3月(北京語言学院留学生楼→②北京大学留学生楼芍園
③ 2008年8月(③北京のホテル住まい
北京市内のGマンション群B棟12階8号
(自宅室内リビングでの日中交流の模様は、NHK BS1「ほっと@アジアスペシャル杉山ハリー 瞳みのると行く北京」2012年10月24日に放映された)
⑤2012年11月(Gマンション群B棟12階8号→⑤隣接区画Yマンション群E棟12階4号
(自宅室内リビングでのドラム練習風景は、僕自身がビデオ撮影して、 NHK・Eテレ「団塊スタイル」~思い立った今が青春~2013年4月26日に放映された)
⑤2013年3月(Yマンション群E棟12階4号→⑥Yマンション群F棟12階4号
(自宅室内リビングでのインタビューの模様は、関西テレビ「日本中が熱狂した伝説のバンド:ザ・タイガース~ ドラマー瞳みのるが語る真実と友情~」 2013年9月14日に放映された。
⑥ 2015年3月(Yマンション群E棟12階4号→⑦Gマンション群某棟某階某号
今回の転居は初めて、2年の契約が切れての引越しとなった。

ともかくも、北京での③~⑦までの引越しは単に二つのマンション団地を行き来したに過ぎないのですが、それでも引越しはそれぞれ一人前の手間暇が かかるものです。僕は引越しは決して嫌ではありませんが、特に好きでもありません。
所詮、京都から出て来て、大阪、東京、京都、東京、埼玉、千葉、東京、そして北京等々というわけで、転々として来ました。京都の生まれた地を離れた後は 、何か吹っ切れたような気持になって、まさしく「人間(じんかん)到る所青山有り」という心境になってきました。
江戸時代末期の僧釋月性(1817-1856)の七言絶句の詩「將東遊題壁」の転句・結句に、 「・・・埋骨何期墳墓地 人間到処有青山」
(・・・骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん。人間到る処青山あり)
とありますが、北宋蘇東坡(蘇軾1036-1101)の「授獄卒梁成以遺子由」七言律詩の頚聯五句目に、
「・・・是処青山可埋骨・・・」(・・・是《いた》る処の青山 骨を埋む可し。・・・)
とあることから、着想しているわけですが、これから先、またどのようになるかわかりませんが、何処で生きても、どこで死んでも自分の好きなところであれ ば、まぁいいかと思っています。故郷は必ずしも京都だけではないように思われてきます。

2015年4月2日(木)引越しのため少しずつ荷物の整理を始め、3日(金)引越し前夜にはほとんど荷造りを済ませ、4日(土)引越して、5日(月)やっと引 越しの全作業を終えました。
つまり、2日・3日の梱包と4日・5日の開梱、休みなしに作業したので厨房を除 いて、自分勝手キッチンと片付け、最終日5日は台 所で、ようやく悔恨の日々から解放され、調理室が片付き炊事場として利用できることに喜びを感じました。
やはり引越しは、梱包は無論のこと、必ず開梱が伴うものですね。悔恨は必ずし も心だけでないということが分かりました。
今少し書きましたが、この厨房・キッチン・台所・勝手・炊事場という日本語の調理室 を表現できる語彙の多様性さに気づかされて特に嬉しくなりました。日本語は実に各言語を巧みに受け入れ、豊かな言語世界を形成していることに気 づかされるという大収穫を今回の引越しで深く感じました。
中国語(厨房)・英語(kitchen)では、日本語ほど同意語をバリエーション豊か に別の語彙で言い表すことはできません。これが、僕の好きな、親父ギャグではない、言葉遊びなのです。わかって頂けますか?分からない?それも結構です 。
日本を含めると40回は下らないかと思いますが、何十回という引っ越し自体が下らないと言われてしまえばそうですが、自業自得ですが結構疲れますね。
そんな合間に、水を(約20リットル入り)タンクで注文購入したり、ガスがメーターに殆どないので大家が契約している指定銀行にガスを買いに行こうとした りと大変忙しい1日になりました。北京では電機は先払い、ガスは古い団地は後払い、新しいマンション系団地は先払い、水は一律後払い、しかも支払先が皆 個々で日本のように銀行口座で公共料金一括一律後払いとはいかなないので面倒です。
ガスですが、銀行へ行こうとしたのは時間がすでに5時、日本と違って何時も午後5時半に銀行が閉まるので少々焦りましたが、ともかく先ず電話で確認した 方が無難だろうと電話をかけたのですが、もう電話に出ないのです。
そういえば清明節(二十四節気の一つで、民間の習慣ではこの日に墓参りに行きます)でした。 
清明節(今年は4月4日から)は中国では数年前から三日間休日になっているのをすっかり忘れていました。でも、銀行は1日しか休まないので、翌日買いに行 くことにしました。ガスがないと煮炊きもできず、全て外食になると厭き厭きしますから。
引越し当夜は入浴(部屋はシャワーのみ)してさっぱりしたい気分ですが、メーターにガスがほとんどないので今夜はそのシャワーも抜きとなります。本来な らば気温もかなり上がるころですが、運よくこのところ北京は結構寒いぐらいなので、引っ越しで汗もかいていないので気分的にはホットしました。
引越し当夜の食事は、引っ越しソバではなく、自宅すぐソバ、東北料理(東北三省 、吉林・遼寧・黒竜江)店で済ませました。
東北で有名な「豚の骨付き肘肉煮」でした。大皿・小皿が選べるので、小皿で注文したところ大男の拳骨大のが三つも出て来て、まるで「最初は、ジャンケンポン」をしているように思われました。結局他にも料理も頼んでいたので一つしか食べられませんでした。本当 にその大きさに圧倒されて「うの音」も出ませんでしたが後は持ち帰り(打(dǎ)包(bāo)と言います)にして三つ巴のジャンケ ンにけりを着けました。
食事を済ませた後、自宅に比較的近いフランス系のスーパーマーケットのカルフール(家(jiā)乐(lè)福(fú))へ引越しで必要となった日常雑貨を主に買い足しに出 かけました。
勿論今夜は風呂なし、湯船にゆっくりつかれれば、疲れが一遍に取れるだろうにと の思に取り憑かれました。


追伸:
重要なお知らせです
本日、先達ての戯曲『仲麻呂と楊貴妃』のビデオがようやく出来上がって
本日付で発売となりました。皆様どうぞお買い求めご覧ください。
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「仲麻呂と楊貴妃~邯鄲の夢枕~」DVD・Blu-ray 4月10日発売 >>


 2015年4月10日 ひとみみのる 記



北京便り

皆様今日は!
現在、僕は北京に居ります。昨日、当地ではPM2.5の影響で天空にかかる靄(雾(wù)霾(mái)といい大気汚染をいいます)が午前は特に劣悪で視界が悪く、さすがにマスクをつけて散歩に出かけました。
ロンドンスモッグ(Great Smog of 1952、London Smog Disasters)1952年に ロンドンで発生し、一万人以上が死亡した、史上最悪規模の大気汚染による公害事件)のような大禍を引き起こさないか多少心配です。

東京辺りはすでに春たけなわとのこと、北京も若干遅れて北国の春の到来です。

「たけなわ」、と言えば、ついでながら昔東京は港区「たかなわ」(高輪)に一時期住んでいた人がいましたが、その住人はたかなわというよりは「どろなわ」で、何をするにしても愚図で、後手後手に廻ってしまいますから常に先手を打とうと相変わらず日々いまだに悪戦苦闘しているそうです。
ところで、中国の成語に「笨(bèn) 鸟(niǎo) 先(xiān) 飞(fēi)」(愚図の鳥は他の仲間の鳥に先だって飛ぶ)と謙遜して言いますが、その人の場合は文字通り「勤勉で鈍才をカバーする」の方です。それは、余談、もともとこの話自体が余談で、古文での活用を問われれば、無論、余(四)談活用になるでしょう。

北京にいて、今を盛りとして謳歌している、日本の桜花を見られないのが残念です。少し前まで、乾燥して埃っぽくカーキ色ではあるものの、ほとんどモノトーンの冬の世界にあった大地から白モクレン(木蓮・木蘭。漢語では木蘭・玉蘭・辛夷。別名:望春花・迎春花)が天を清めるかのように高く輝いて、桃の花と共に春を知らせてくれています。
楊柳はいつの間にか芽を吹き、ヴィレッジ・シンガーズ(1968年)・島谷ひとみ(2002年)のヒット曲(橋本淳詞、すぎやまこういち曲)の「亜麻色の髪の乙女」のごとく、「緑色の長い柳枝を春風がやさしくつつん」でいるように思えます。

[photo]  木蓮、桃花、楊柳  >>

 2015年3月29日(日)於北京
ひとみみのる記



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